トランプ関税の正当性は疑問が残るところですが、影響が大きい国々の多くは関税引き下げを求めて貿易交渉を行ってきました。
日米貿易交渉の経緯
日本は25%の関税率(自動車関連は27.5%)を課せられたことで、自動車メーカーを中心に引き下げを求める声が強く、石破政権はその任に当たってきました。
ただただ理不尽でしかないトランプ関税は望ましくないものであるのは当然のことながら、メーカー各社が交渉により引き下げが可能であると考えている様子は筆者には奇異に映りました。
トランプ関税にはそもそも合理的な理由はないのですから、関税により米国が受けるであろうデメリットを説いても意味がなく、対米投資により貢献していることを主張したところで米国の貿易赤字縮小には無関係であるから、理を尽くしたところで関税の仕組みすら理解していないトランプ大統領に心変わりを促すことは不可能だからです。
米国の貿易収支が黒字となっている英国の場合でも10%の関税率が適用された時点で、交渉は不毛であると誰もが理解していたはずです。
米国が貿易黒字であることや、米国にとっての最大の同盟国であることは関税の水準を考慮するうえで勘案されたかもしれませんが、関税を課さないという判断には至らなかったということは、貿易赤字の大きい日本が交渉したところで10%よりも高い関税率になることは自明だったわけです。
それでも石破政権は交渉を継続し、その結果関税率を15%に引き下げることで今年7月に合意に至りました。
関税引き下げが目標だったことから一連の交渉は一定程度の成功と見ることができますが、15%という水準は関税率としては低いとは言えません。
関税引き下げは果たして意義のあるものだったのでしょうか。
交渉により勝ち取ったもの・失ったもの
関税率を10%引き下げること(25%⇒15%)になったわけですから、2024年の対米輸出額21.3兆円(財務省貿易統計より)を元に単純に考えると、年約2兆円分の負担を減ずることに成功したことになります。
問題は、年2兆円の負担減を獲得するために、何を差し出したかです。
合意直後に行われた石破総理の会見では、5500億ドル(約80兆円)の対米投資を行うことに言及しており、その後政府から公表された資料でもその旨が記載されています。
米国の関税措置に関する日米協議:日米間の合意(概要)【米国の関税措置に関する総合対策本部資料】
石破総理は会見において、『政府系金融機関が最大5500億ドル規模の出資、融資、融資保証を提供可能にするということで合意』と説明しており、政府資料でも『政府系金融機関が最大5500億ドル規模の出資・融資・融資保証を提供』と同一内容の記載が見られます。
今年2月に行われた日米首脳会談に際して石破総理は「対米投資を1兆ドルに引き上げる」ことを提示しています。
随分と巨額な投資金額ですが、日本企業が予定している対米投資を積み上げた結果の数字という説明でしたので、石破総理案ならば日本にとっての負担は大きくないと考えられてきました。
合意に至った7月の時点で日本のマスコミの多くは、5500億ドルの対米投資は日米首脳会談の延長線にある話と受け止めていますので、関税引き下げの成果ばかりがフォーカスされました。
しかし、同時にホワイトハウスより発表されたファクトシートにおいては、『米国の指示により、米産業の再生と拡大のために日本は5500億ドルの投資を行う』(筆者訳)と発表しており、投資判断者と投資目的に日米間で齟齬が見られました。
日本企業が自身の判断によって対米投資を行う分には企業の責任と判断において自由に行えばいいことなので何ら懸念はありませんが、投資先をトランプ大統領が決めるとなれば話は大きく変わってきます。
例えば、米自動車産業再生のためにビッグ3に投資しろとトランプ大統領が求めてきたら日本はどうするのでしょうか。
日本の自動車メーカーが米国に工場を新設といった投資ならともかく、政府系金融機関がビッグ3に対して巨額投資を行って回収見込みが十分に成り立つのでしょうか。
しかも、その投資の結果として米国市場における日本メーカーの立場が苦しくなる可能性も出てきます。
さらに、日米双方の資料に明記されていますが、投資の利益の9割は米国が得るとされています。
この「利益」が具体的に何を意味するのかは不明ですが、単純に考えると日本はほぼリターン無しの投資を行うことになります。
8月のCNBCインタビューでは、トランプ大統領はこの5500億ドル対米投資のことを「野球選手の契約金みたいなもので、我々が好きに使える資金」(筆者訳)と評しています。
Trump’s tariff playbook comes with a baseball twist
合意内容の詳細は日本政府の説明と異なる
合意の詳細が不明である点について日米双方で不満が高まり、9月の共同声明および了解覚書により対米投資の枠組みが明示されました。
日本国政府及びアメリカ合衆国政府の戦略的投資に関する了解覚書
まず共同声明により判明したことは、米農産品年80億ドル追加購入、ボーイング航空機100機購入、LNG年間70億ドル追加購入、防衛装備品年間数十億ドルの調達額増加といった米産品の購入は5500億ドル対米投資には含まれないということです。
これにより投資パッケージの内容は、日米首脳会談の石破案とはまったく異なるものであることが確定しました。
続いて了解覚書を見ていくと、投資先を最終決定するのは米国大統領であり、投資先の推薦を行うのは投資委員会となっています。
投資委員会の委員は議長である米商務長官が選出することになるため、米国人で委員会が構成されるものと想定されます。
大統領への推薦に先立ち、日米両国から指名された者で構成する協議委員会と投資委員会は協議することになっていますが、協議委員会は両国において考慮すべき戦略的および法的事項について情報提供する責務を負っているにすぎず、投資委員会は協議委員会の意見に従う義務はないため、投資先選定は米商務長官および大統領の主導で行われることが明確に規定されています。
赤澤大臣の帰国後の会見では日本が投資先選定に関与すると説明していましたが、これは協議委員会を通じた関与でしかないため、実際に選定を行う投資委員会に日本が関与できるとする規定はありません(日本から委員が選出されるならば別ですが)。
「大統領は提案から選ぶ」 対米投融資、広範な裁量を否定―赤沢担当相
文書上は大統領の投資先決定に対して日本がノーと言う権利を認めていますが、その場合には投資に係る分配金を受ける権利を喪失すると規定されており、投資資金の回収が困難になることが想定されます。
また、日本が投資を渋った場合にはトランプ関税の引き上げを行うことができるとも規定されています。
つまり、ノーと言う権利は形式にすぎず、日本はトランプ大統領の決定に従わざるを得ないということです。
予算委員会において赤澤大臣は、政府系金融機関が資金を提供するため「日本の利益にならないもの、大赤字になるようなものに手を出すのは法令違反になる」と答弁していますが、これは嘘ではないものの誤誘導に当たると考えます。
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ある投資先について、協議委員会において日本の委員が法令違反になると指摘したところで、投資委員会が協議委員会を無視して投資先を推薦し、大統領が選定すれば、日本は投資実行を迫られます。
法令違反を理由にノーと言うことはできますが、上記の通りペナルティが発生します。
ペナルティを回避するならば、法令違反を承知で投資を実行するか、民間企業を迂回することで法令違反とはならない形で投資を実行するかのどちらかの選択になります。
つまり、「法令違反になる」という説明自体は事実であるとしても、投資が行われない説明にはなっていないのです。
「好きに使える」と言っていたトランプ大統領の言い分が正しかったわけで、日本政府の説明には嘘あるいは誤誘導が含まれていたのです。
投資分野についてすら、関連条項において、半導体・エネルギーといった日本が掲げた産業分野が列挙されているものの、「これらに限定されない」とわざわざ明記しているのでトランプ大統領は自由に投資先を決めることができる始末です。
この投資パッケージは、見方を変えると、日本が米国の国家予算の一部を負担し、予算の計画や執行において米議会の承認を一切必要としないというトランプ大統領にとって極めて都合のよい財布と言えます。
合意内容は日本の国益に適うのか
当初発表では不明であった投資の「利益」については、投資によるすべてのフリーキャッシュフローを分配することとなっており、日本が投資の元利金の回収を終えるまでの間は日米で折半し、その後は9:1の比率で分配すると規定されています。
つまり、日本が投資資金を回収するには想定の倍以上の期間を要するということであり、且つ投資リターンのアップサイドは実質的に放棄するということです。
また、この枠組みでは回収期限を設定することは無意味であるため、融資や保証という形態では成立しえず、出資の形態一択になるはずです。
あくまでも融資の一種として考えるならば、日本が回収を終えるまで同額が米国にも支払われることから投資先にとっての実質的な借入レートは100%を超えることになります。
レート水準のみで判断するならば回収不可能案件ということになり、純粋な投資案件であったならば絶対に資金が集まらないところでしょう。
それでも資金回収できるならば日本の損失にはなりませんが、回収が確実な優良案件ならば米国としては自国資金を使ってリターンのすべてを確保したほうが断然いいわけですから、回収の見通しが立ちにくい案件や、回収が見通せても米議会が承認しないであろう案件が回ってくると考えられるため、5500億ドルはかなりのリスクに晒されると見るべきでしょう。
もし80兆円の一割程度でも回収できなくなった場合、年2兆円分の関税を節約できたこととはまったく割が合わず、交渉などせずにトランプ関税を当初のまま受け入れて80兆円の一部を産業界支援に回したほうが有益であったことになります。
トランプ大統領がどのような投資先を選定するかが不明である以上は80兆円がどの程度のリスクに晒されているかが確定しませんが、リスクが小さいと見ることはできないことから、今回の日米交渉は大失敗と言わざるを得ません。
新政権は、この枠組みにて本当に投資を行うのか再検討すべきではないでしょうか。
ノーと言う権利自体は付与されているので、合意の不履行には当たりませんし、初期の段階でノーと言う分には、合意がご破算になるだけで失うものは大きくありません。


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